[ 言葉のメモ帳 ]
昨日は久しぶりの仲間との飲み会だった。7年前に仕事で経済産業省の案件を一緒に取り組んだが、その時の話題で大いに盛り上がった。まさかこの田川郡内で国の実証実験の先駆的役割を担うとは思っていなかったが、はじめての試みには必ず失敗がつきもので、でもその分ある意味で大きな成果となって今に活かされている。何度も何度も計画をつき返され、プライマリー企業の責任者は「神崎さん、もうやめましょう。私が責任をとって会社をやめます。もう私の人生は終わりです。」とその方は嘆いていた。本当に逆境に立たされたが、その逆境にあるのを不運だと思わず、みんなの総力で創造し乗り越えた事業だった。 大事な事は、倒れないことじゃなく、倒れても立ち上がる事だと思った。何事も自然の意思だと無心に受け入れて、しなくてはいけない仕事に黙々と取り組んでいくと、求めなくてもいつの間にか進まなければならない方向に自ら動くんじゃないかと思う。「流れに従い、されど流れに任せず」これが今の自分の心境かもしれない。
2006.2.8 |
[ 言葉のメモ帳 ]
ここ二日間、時間に追われ、まったく机上で事務ができなかった。一軒倉庫代わりの家があったので、そこを事務所に使っている。机が3つ、コピー機兼FAX、電話も引いて事務所らしくなる。名簿整理に資料作成と事務処理は山のようにあり、また会社だったら当たり前のようにある事務用品なんかも一から揃えなくてはならず、本当に大変な状況になったが、とにかく一つ一つ片付けていこう。と思いきや、外出から帰ってくると子どもたちが勝手に入ってきて遊び場にしていて叱る。でも家族みんなが今の僕を支えくれているので、やんちゃ坊主の子どもたちにも大目に見なくてはかな?親って言うのは「木の上に立って見る」と書く。まだまだ修行が足りないのは小生かも知れない。
2006.2.5 |
[ 言葉のメモ帳 ]
ライブドア事件が大きく取り上げられている。「犬も歩けば棒にあたる」という諺があるが、これは、ともかく歩けば何かいいものに出会うように解釈されているが、本来の解釈は、犬があっちうろうろ、こっちうろうろ、何かいいものはないかと餌をあさって歩いていれば、棒にぶたれるよ。という意味。会社は本業以外にあれこれ手を出すと痛い目にあう。人は欲望のまま手を出すとしっぺ返しを食う。まさに今回の事件は本業以外に手を出し、こういう結果になったんじゃないかと思う。
やはり地域社会、顧客のニーズに応えていかないと永続した企業にはならないと思う。ただ、地域や顧客の期待を越える価値やサービスを提供するためには、ニーズを聞くだけではダメで、需要を掘り起こすことも重要になる。
先日はある地域でお世話をして下さる方と挨拶廻りをした。30軒近く廻ったが途中から犬がついてきて、「この犬は最後まで一緒についてくるよ」との事。本当に最後まで行く先々、おしっこをかけながら道案内をしてくれた。
「犬と一緒に歩けば親しくなれる」 ほのぼのした挨拶廻りだった。
2006/1/29
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[ 言葉のメモ帳 ]
人の死は、生まれる時と逆にならなければならないと言う。生まれる時は、人は泣きながら生まれてくる。でも、死ぬ時には本人が大笑いして、周りがその人と別れることがいやだと泣いてくれるのが最高の死に方だそうだ。昨日は本当にそんなお葬式だった。人生は一度。しかも人それぞれ違う。試練から逃げる人、どんな環境にもなってもくじけずに立ち向かう人、きっと自分が問われる瞬間がくると思う。先のことは誰にもわからない。だから今を精一杯生きようと思う。
「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかも」
2006.1.28 |
[ 言葉のメモ帳 ]
| 昨日身内の叔父が亡くなった。昨日のお通夜今日のお葬式。涙が出てきた。今週の月曜日にお見舞いに行った時にはしっかりと話をしていたのに、本当に残念でしかたがない。ご遺族・家族の事を考えると何と言葉をかけていいのか言葉に詰まる。11月に選挙に立つという事で親戚寄りして頂き、「がんばるきな、やるきな、任せちょきない」と元気が良かったのに・・・父も亡くなり7年になるが、叔父も同じ添田町役場に勤務し頼りにしていたのに本当に寂しく、残念です。いつかは人は死ぬんでしょうけど、本当に残念で・・・
「誠実の道、人の宝なり」が亡き父のモットーであった。真心をこめて事にあたれば、やれない事はない。どんな人もまごころをこめて話し合えばきっとわかってくれる。と・・・何事をするにも、しっかりとした志を立てることが大事であり、はじめたらやり遂げるまで強い心を持ってがんばりぬかねばとならない。と父の言葉を思い出す。亡くなったおいちゃんの在りし日を想いながら今はただ心からご冥福をお祈りいたします。
2006.1.27 |
[ 言葉のメモ帳 ]
| 毛利元就が三人の息子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)を呼び出し、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。
「三矢の訓え」は、萩城を築いた毛利輝元の祖父・元就が、三人の息子(隆元、元春、隆景)にあてた教訓状をもとに作られた説話。大きくなればなるほど一族間での争いが生じることは戦国の世の常である。毛利家の将来のため、一家の頭領として三人の子どもに一致団結を切々と説き「1本の矢なら簡単に折れるが、3本まとめて束にすれば折れない。それと同じように、3人が力を合わせれば、誰にも負けることはない」と諭したと伝承されている。
令和7年5月10日11日、上添田財団区の須佐神社神幸祭が執り行われた。今年の神幸祭は、我が家の男三兄弟が初めて一緒に御神輿を担ぐことになり、時代の流れっていうか、我が家も確実に世代交代しているんだと実感した。嬉しくもあり、頼もしくもあり、だんだん歳を取っていく自分自身が情けないような気もするし・・・それより何より3人が一生懸命に頑張ってくれたことが嬉しかった。
長女も含めて4人の子どもたち一人ひとりが、それぞれ就職し、また家庭も持ってくると、きっと自分自身の持ち味を生かした人生をそれぞれが歩んでいくと思う。願わくば、神崎家や地域に何かあった時は駆けつけて、みんなで力を合わせて集まり、事に当たってほしいなぁと思う。



2025.5.13
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[ 言葉のメモ帳 ]
| 12月定例会も終わり、いよいよ来春の統一地方選に向けて準備をしている。地域での挨拶まわりから帰宅するとポストに、お寺から”ふるさと通信”「法光寺だより」が入っていた。その一説に、「おらがおらがの我を捨てて、おかげおかげのげで生きよ」という詩があった。
続けて、「江戸時代の僧侶で歌人として有名な良寛という方が詠んだとされる歌です。私が私がという自分中心の考えでは見えてこない世界があります。「他力本願」という阿弥陀さまの光に照らされた、おかげさまの命を共に歩ませていただきましょう。」と書かれている。
自分自身を振り返ると、どうしても自分中心に考えてしまうことがある。もっとこうして欲しい。要求や要望、まわりに望むことが多くなりがちになっている。
忘己利他(もうこりた)という言葉があるが、これは、「己(おのれ)を忘(わす)れて他(た)を利(り)するは慈悲(じひ)の極(きわ)みなり」いう最澄の言葉で、自分のことは後にして、まず人に喜んでいただくことをする、それは仏さまの行いで、そこに幸せがあるのだという言葉だという。つまり、我欲が先に立つような生活からは幸せは生まれないのだという。
4年1度の選挙は、この言葉を思い出させてくれる。何のために政治を志したのか。誰のために何を為すべきなのか。原点にかえる。原点を忘れてはならない。何もないところから最初に応援して下さった方々を思い出しながら、「忘己利他」”おらがおらがの「我」を捨てて、おかげおかげの「下」に生きよ”
2022.12.24 |
[ 言葉のメモ帳 ]
| 昔先輩から「己知らずと、恩知らずほど悲しいことはない」と教えられました。今回は己について考えていきます。「自分のことは、自分が一番知っている」と言う声が聞こえてきそうですが、はたして自分自身に出会っているのでしょうか。知っているつもりになっているだけではないでしょうか。
自分の顔を見たことがありますか?「鏡を見ればわかる」と返ってきそうですが、自分の根性の現われた顔はどんな時の顔でしょうか。喧嘩している時の顔です。相手が憎たらしい顔でポンポン文句を言ってくるでしょう。こちらも同じような顔で文句を言っているはずです。でもそのような顔は見るすべがないですよね。ほら、自分の顔さえ知らないじゃないですか。しかし、容易に想像できますね。
ところが「自分はあんな顔はしません、何時もにこやかです。」と自分のことを知ったつもりになっているのです。この「つもり」が怖いのです。「ひょっとしたら」と小さな「?」が着けば、聞きます、尋ねます、求めますからね。ところが、「つもり」のままだと聞きもしなければ尋ねもしません。
この頃高速道路を逆走している車の影像をテレビで見かけますね。あの逆送している車の運転手は、逆送していると思っているでしょうか。いいえ、「ひょつとしたら」と小さな「?」でも着けば、ブレーキをかけるはずです。あのスピードで走っているということは、逆送しているなんて思ってもいない証拠です。 同じように、自分の事を知っているつもりで生きているのではないでしょうか。 怖いですね。
ある男が、テレビを見ていると高速道路を逆走している車の影像が映っていました。「そういえば、おやじが今日、高速道路を走っているはずだ。注意してやろう。」と、車に電話をかけます。「おやじ今、高速道路を逆走している車が一台あるぞ、注意しろよ。」
それに対して父親は、「こっちは一台どこじゃないぞ、何十台も逆走してくるぞ。」逆走していたのは父親の車だったと言う笑い話があります。けど、笑ってられますか、日頃の生活でこれをやってませんか「何時も自分は正しい。間違っているのは、相手。」時には自分が逆走していることもあるはずですよね。
つぎに、物事を計量するためには、基準になる物差しが必要です。私達は、正しい物差しで物事を計量しているでしょうか。
くまのプーさんというアニメがあります。そのくまのプーさんの友達にルーというカンガルーの子供がいます。そのルーが背丈を測るのに印を着けます。しばらくして又、印を着けたら背が縮んでいたのです。何度計っても縮んでいくのです。ルーは悩みます。「僕はこのまま小さくなって消えてなくなるんじゃないか。」と。そして、プーさん達に相談します。プーさん達がルーが印を着けたところを探て、見つけました。ルーが背丈を測るのに印を着けたのは、ひまわりの茎だったのです。ルーの背が縮んだのではなく、ひまわりの茎が伸びただけだったんです。かわいらしい話ですが笑ってられますか。私達も変化するもの、うつろいゆくもので物事を計っていませんか。
2022.2.2
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[ 言葉のメモ帳 ]
| ”成功した時は、窓の外を見よう。そして、成功の要因を見出そう”
”失敗した時は、鏡を見て、自分に責任があると考えよう。”
「成功」功を成すことも大事だけど、「成幸」幸せを為すことも忘れないように。
人生というのは何がおこるかわかりません。予期せぬ衝撃的な事が次から次へと。それでも、地球は回っているし、時代は常に変化しています。
何が起こるかわからない時代だからこそ、指導者は先見性を持たなければなりませんし、逆に先見性を持てない人は指導者としての資格がないといっても過言ではないようにも思います。まさにリーダーの役割は極めて大きい時代になっているんだと思います。
時代というものは刻々と変化していますから、昨日は是とした事が、明日には時代遅れだということが、この新型コロナウイルスの感染拡大で明らかになりました。
したがって、どのような時代に移っていくのか、経済はどの方向に流れているのかを見極め、変化を予見し、予め手を打っていく。こうしてはじめて国家も安泰し、企業は発展していくんだと思うんです。
アフターコロナは、経済(景気)回復=暮らしへの安心が第一であり、世界の空気は経済を何とかしなければという世論になってくるんだと思います。
一方で、日本の政治は大きな転換期を迎え、地方もまた大きく変わろうとしているんじゃないでしょうか。すべてをCHANGE(チェンジ)していかなければならない時期に来たのかもしれない。まるで明治維新のような凄い時代に生きているような気がしています。
出来ることならば、自分は評論家になったり批評する側ではなく、常に自分から行動して、周りに良い影響と結果を出す事を心がけていこうと思っています。とにかく、何事にも明るくポジティブに行動してみる。行動だけが、現実を変えて行くんだと思うんです。これからは、常に新しい道に果敢に挑戦するしかないんじゃないでしょうか。
私の家の掛軸を見ながら、「一源三流の精神」という言葉を思い出しました。一つの源は、誠の心。この心から三つの流れがほとばしります。
一つは、国のために血を流す
二つは、家のために汗を流す
三つは、人のために涙を流す
血は信念を、汗は努力を、涙は感情を表現していると言います。
信念を貫くことは、命をかけるくらい真剣に物事に打ち込まないとできません。額に汗して労を惜しまず働き、涙を流すというのは、辛いこといやなことに耐えるということであり、同時に感動感激の涙は、自らを高揚させるエネルギーにもなります。
危機感を持った地域や企業・起業人たちが、新規ビジネスを立ち上げ、新しい技術やビジネスモデルを導入することで、既存事業をも競争力のある事業へと変革してもらいたい。これからは間違いなく、地域の創造するエネルギーが力になってくるんだと予想します。
経済の変化に臨機応変に対応できる政治決断をしなければならないと考えます。

2021.5.8
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[ 言葉のメモ帳 ]
| 【地獄と極楽】

県議会は12日、決算特別委員会知事保留質疑が終わりました。明後日の最終本会議で採決されます。
新型コロナウイルスの影響によって、デジタル化の波が一気に押し寄せているような気がします。
ただ社会全体が、利便性や効率性を追求し、変革のスピードが加速しているため、私たちは本当の幸せって何なのかを忘れてしまっているんじゃないでしょうか。IT業界に身を置いていたからこそ、アナログ文化も守っていかなければならないとも思っています。
「地獄と極楽」という話があります。ある人が地獄に案内されて行くと、そこには大きなテーブルがあり、その上にはおいしそうなごちそうがいっぱい載っていました。しかし、そのテーブルに向かっている人を見ると、どの人も骨と皮ばかりにやせ細って、目ばかりギラギラさせています。こんなにごちそうがあるのになぜだろうとよく見ると、体が椅子にしばりつけられていて、その手には長いはしを持っていました。その長いはしで食べようとしますが、長すぎてうまく口に入らないのです。食べようとあせればあせるほど思うようにならないので、ますます恐ろしい形相をして、お互いにらみ合っているありさまでした。
次に極楽に案内されて行くと、全く同じようなテーブルがあって、ごちそうがいっぱい載っています。そのまわりに座っている人の体は椅子にしばりつけられていて、その手には長いはしを持っていました。

状況は全く同じなのですが、そこに座っている人たちを見るとみんな豊かに太っていて、見るからに楽しそうな、幸せそうな様子なのです。どういうわけだろうとよく見ると、そこの人たちは長いはしでごちそうをはさんでは、向かい側の人に「はい、どうぞ」と差し出しているのです。すると向かい側の人は「おいしい、おいしい」と食べては、今度は反対に、長いはしでごちそうをはさんで「はい、どうぞ」と向かいの人に差し出すものですから、お互いに、「すみませんね、ありがとう、ありがとう」と言って、本当に幸せそうな顔をしているというわけです。
地獄と極楽との違いは、自分が社会の中で他の人とかかわって生きている存在であるということに気づいているか、いないか、ということではないでしょうか。
「おかげさま」の心を大切にし、自分のことだけでなく、お互い協力し合うことの大切さが大事ですね。どんなに文化が発達し、便利な世の中になってもけっして忘れてはならない事があります。

2020.10.13 |
[ 言葉のメモ帳 ]
| 【秋の夜長、セイタカアワダチソウとススキを見て、外来ウイルスと日本古来からのウイルスの関係ってどうなのか考えてみる】
今年も、ススキが穂を伸ばし、何となく力強さを感じてしまいます。
長らく、外来種である黄色くドクドクしい花を咲かせ繁殖してきたセイタカアワダチソウに占有されてきましたが、見事に復活を遂げ、共生するようになっています。
セイタカアワダチソウは、地中に毒素をまいて、日本古来の植物を全部駆逐し、それだけでなく土の中にいるミミズなど、土地を豊かにしてくれる動物や昆虫たちまでもいなくなってしまいましたから、今の現状に胸を撫で下ろすような気分です。
セイタカアワダチソウは自分の出した毒素で地中の栄養素を枯らし、結局自滅し始めました。そのような中で、ススキは、セイタカアワダリソウが枯らした土地にふたたび栄養素を与え、毒素を消化し分解しました。ススキの繁殖のおかげで、土地はふたたび栄養を取り戻し、ミミズも戻って来ました。そしてスズムシなどの秋の昆虫も帰って来たんです。
秋の夜長、セイタカアワダチソウとススキを見て、外来ウイルスと日本古来からのウイルスの関係ってどうなのか考えてみたりしています。
2020.10.13 |
[ 言葉のメモ帳 ]
| 彼(敵)を知り、己を知れば、百戦して殆うからず
言わずと知れた孫氏の兵法(謀攻篇)ですが、彼(敵)とは、未知の生物のこの新型コロナウイルスであり、予防のワクチンも感染の治療薬もない敵にどうやって戦いを挑むのでしょうか。この敵はどのくらい兵力(蔓延している)なんでしょうか。
福岡県では昨日15日までに436人が感染者として報告されていますが、それは感染者数ではなく発症者数であります。実際の感染者数は一体どのくらいなのか。数倍なのか、それとも数十倍、数百倍なのかがまったくわかりません。敵の数さえわからないから、これでは戦いになりません。
とにかく今は籠城することが最善の策で、トップ(知事)は5月6日までの籠城(外出自粛)要請を出しましたから、そのためには兵糧(給付)を蓄えて置かないといけないということになります。
今、この有事に必要なトップリーダーの条件として欠かせないのは"逆境に強いリーダー"ではないのかと考えます。危機というのは、危険の「危」と、機会の「機」、という文字から成立っていますから、すべての出来事には「失敗」も「成功」も、ある種同時に含んでいるんですね。
リーダーの本当の強さとは逆境をチャンスにし、そのどちらに意識を向けるかで組織のムードは変わってきます。最悪の状況でリーダーがクルクルと指示を変えたり、うろたえた姿勢で感情的に部下を怒鳴りつければ、不安を感じます。不安を感じると、益々あせってさらに失敗をくり返し、組織として最悪な状況を脱出できないという悪循環に落ち込むもんです。
苦境の時にはプラスな側面に、またポジティブな思考に転換できるリーダーが本当の実力ではないかと思います。
2020年4月16日読売新聞朝刊より
2020.4.16 |
[ 言葉のメモ帳 ]

今年は義父と母の3回忌。早いもので、亡くなってもう2年となる。法光寺のご院家(住職)から仏法の真理の法話があった。大変、有難いお話でいつもいつも、ハッとさせられる。子供たちにも聞かせてやりたかったので、備忘録としてブログに残しておこう。うろ覚えながら、こんな話だったと思う。
ニュートンはリンゴが落ちるの見て、万有引力の法則を発見した。ニュートンが引力を発明したのなら、それまで引力はないということ。けれども、引力があったから、発見できた。
仏法も真理(しんり)があったからこそ、お釈迦様は発見できた。ここを勘違いしないように。お釈迦様がつくったんじゃない。何を発見したのか?真理(しんり)を発見した。ものの理(ことわり)を物理と言う。数の理(ことわり)を数理と言う。それと同じように、真(まこと)の理(ことわり)を、真理(しんり)と言う。どういうふうな形で発見したかというと、縁起というかたちで発見した。縁起がいいとか悪いとか、そんなもんじゃない。原因があって、結果がある。この結果がまた次の原因になる。けれども、原因だけでは結果は出ない。
例えば、モミ種一粒あったら、これが原因となって、結果が米がとれる。この米が来年の因になって、果ができる。因果因果とくるが、例えば、畳の上にモミ種置いても、芽は出ない。土がいる、水がいる、太陽の光がいる、人の手がいる、肥料がいる、これを縁と言う。だから、因があって、縁によって、果がおこるから、縁起という。
具体的には、みんな関わりあって生きている。一人で生きているものは一人もいないというのが縁起。関係ないものは一つもない。
ものごとを計量するには、物差しがいる。その物差し、私たちには自分自身の物差しを持っている。ところが、この物差しは相手の出方によって自由自在に動く。相手の出方が良い時は、この人はいい人ねと、1cmが1mにもなる。相手の出方が悪くなると、こんな人とは思わんやったという。その物差しで自分自身をはかったらどうなるか?自分は自分に一番甘いから、1cmが1mにも2mにもなる。1cmは1cmという、これを真理と言う。私を教えてもらう以外に私はわからない。
くまのプーさんの友達にカンガルーのルーというのがおる。それが自分自身の背丈測る。そして印をつける。一時(いっとき)してまた測ったら、縮んどる。また行ったら縮んどる。ルーが悩み、このまま小さくなって消えて無くなるじゃないかって。悩んだ末にプーさんたちに相談する。プーさんたちが調べると、ルーが印を付けとったのは、ひまわりの茎だった。ひまわりは伸びるからね。私たちこういうことをやっている。測るものが動いたら、測ったことにならん。私たちは世間とか、あの人がこう言うとか、そういうものばっかりで測ろうとするから、全然(自分に)出合ってないんじゃないですか。
この頃、テレビで高速道路を逆そうする車が時々写る。ある男性がテレビで一台、逆走するのを見た。あっ、そう言えば、今日、うちの親父が高速道路乗ると言っていた。ちょっと電話かけてみようと思い、電話をかけた。「親父、今な、テレビでな、高速道路で逆走する車が一台が写っとるが気を付けれよ」って言ったら、親父がね、「バカ、ここは一台どころじゃない、何十台も逆走してくる」と、逆走しとるのは親父やったという話。皆さん、笑いよるけど、私たちはこういうことやっとる。私は間違いない、逆走しとる人は、逆走しとると思うてない。思った瞬間にブレーキ踏みます。あれは自分が正しい道を走っとると思っているだけ。しかし、実際は逆走だったという話。そして相手が悪いと思う。そいうことを私たち、やっとるんじゃないですか?私は間違いがない、これ一番怖いこと。知ったつもりで、人を裁いていくでしょうが。どうですか?皆さん、それを仏様に教えてもらうっていうことです。
2019.10.22 |
[ 言葉のメモ帳 ]
日本人は、「はっきりものを言わないからダメだ」とよく言われるが、逆に、「はっきりものを言わないから、とても心地いい」ことも多い。特に男女関係、夫婦関係を考えると、「物事はっきりさせる」「白黒つけたがる」と、本当に息苦しいし、くたびれる。世の中は、良い悪いだけでなく、グレーゾーンがあることが社会であり、「決着をつけない、白黒ハッキリさせない」ことで、世の中成り立っていることが多いように思う。
日本人の「はっきり決着をつけない」曖昧な考え方は、神話の世界でも垣間見えてくる。古事記に出てくる、イザナミ・イザナギから生まれた、長女のアマテラスオオミカミ。長男がツクヨミノミコト、そして、次男が、スサノオノミコト。古事記では、太陽の象徴のアマテラスオオミカミと、大地の象徴であるスサノオノミコトの兄弟喧嘩を描いているが、最後は地上界に降りたスサノオノミコトは良い人となっていく。古事記を読んでいくと、善悪や勝敗、優劣や白黒をはっきりさせないで物語が進んでいく。日本の曖昧さって、実はこういうところからきているのではなかろうかと思ったりした。
白黒ハッキリさせたばっかりに不幸になることって世の中たくさんあるじゃないか。「曖昧」は決して悪いことではないって、(夫婦喧嘩した時には)言いたくなるよなぁ〜。

2019.10.22 |
[ 言葉のメモ帳 ]
さぁ、いよいよ明日(令和元年6月20日)から県議会6月定例会は代表質問に入る。これから4年間、二元代表制の一翼として議会は知事とどのように向き合っていくのか、議論を尽くし、より良い県政にしていかなくてはならないと肝に銘じている。6月13日に知事の所信表明(議案説明)を本会議場で聞きながら、「県民幸福度日本一」を目指し、生活者の視点を重視しながら、弱い立場のにある方々に寄り添う「温かみのある行政」を心掛け、福岡県をさらに元気にすべく・・・と述べられているけど、本当にそうなのか?少なくとも人口減少で先行き不安な地域や豪雨災害で被災した地域など到底知事が言われるような県行政は実行されていないのではないかと思うことが多々ある。耳触りの良い言葉よりも、それを実践してこその行政を目指さなければならないのではないか。

先日、法光寺の聞法会総会に出席してきた。ご院家から、「吉凶禍福」の話があり、何となく知事の言葉を思い出しながら、幸福度日本一にとらわれている人間の姿は、何とも自分に都合のよいことばかりを追い求めた生き方なのか、自分のしていることを正しいと信じ込んで疑わない生き方が見据えられているのではないかと思った。
仏教では、吉凶禍福を競い合うことがどれほど痛ましいことか、自分の物の見方だけを正しいと信じ込むことがいかに愚かであるか、そのことを問うているんではないかと思う。わざわい(凶・禍)を取り除き、幸福(吉・福)を招き寄せようとする発想そのものがどうなのか。善いのも悪いのも、自分が受ける結果のすべては自分が作るということを「因果応報」の意味で、「因果」とは、「原因」と「結果」のことで、どんな結果にも必ず原因があり、原因なしに起きる結果は一つもない。ご院家は、稲を植え、お米の収穫の例え話をされていたが、原因に応じた結果しか現れないと教えるのが仏教の「因果応報」の教えということであった。自分のやった「行い」が自分の「運命」を作るのであれば、不幸も幸福も「因果応報」ということになる。幸福度とは自分の人生の生き方そのものであり、上から目線で与えてもらうことでないように思った。
2019.06.19 22:10
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